留辺蘂神社と温根湯神社の宮司コラム

北海道北見市留辺蘂町に鎮座する、本務社「留辺蘂(るべしべ)神社」と兼務社「温根湯(おんねゆ)神社」の、第4代宮司 田頭寛(たがしら ひろし)が、神道・神社に関する事や、日々の社務やその他諸々について、呟きます

金華神社を留辺蘂神社に合祀する事を正式に決定

昨年頃から「留辺蘂町の金華(カネハナ)という地区の山林に鎮座する金華神社を、留辺蘂神社の本殿に合祀する」という話が関係者の間で具体的に持ち上がっており、その準備が進められていたのですが、昨夜留辺蘂神社の社務所で開かれた「留辺蘂神社護持会 役員会」に於いて、本年の留辺蘂神社秋まつりに合わせて、その合祀の神事を執り行なう事が正式に決定致しました。

 

そもそも金華神社とはどういう神社で、どういった経緯で合祀を進める事になったのか、という事を、以下に改めて説明させて頂きます。

 

金華地区は、大正3年に国鉄湧別線(現在のJR石北本線)の留辺蘂~下生田原間の開業に伴う上奔武華(カミポンムカ)駅開設を機に、駅前に人々が移住して定住が始まり、次第に拓けていった集落です。
大正5年に愛媛県からの入植者29戸が上奔武に入って以降は人口が急増し、戦後の高度経済成長期である昭和30年代には特に林産や農業などの産業が大いに栄え、その頃に金華は最盛期を迎えたようです。

しかし昭和40年代以降は一気に過疎化が進み、かつて金華の中心地であった集落(旧金華駅前)は現在、廃墟化した何棟かの家屋やナンバープレートの外された数台の廃車と、後はそれらを覆う辺り一面の雑木林が見られるだけで、集落としては実質ほぼ消滅している状況です。

集落の中心施設であった金華駅は、駅舎やホームなどの駅施設はそのまま現存しているものの、駅としての機能は平成28年に正式に廃止されていて、現在は石北本線上にいくつかある信号所のひとつとして使用されています。

ちなみに、金華という住所は今でも残っておりますが(上の画像の地図の中でもその地名は確認出来ます)、過疎化が著しく進行した結果、金華に住人はほぼいなくなったため(現在、金華に居住しているのは、その全域で僅か4世帯との事)、かつて活動していた金華自治会(町内会)は既に解散しており、現在、金華は隣接する「旭3区」という別の自治会の管轄するエリアとなっています。

 

金華神社は、その金華地区の鎮守として、菊地茂七(造材業や商店など手広く事業を行ないながら、学校創立などにも尽力し、町議会議員や金華区長なども長く歴任した人物)らが中心となって、大正4年に金華の集落を眼下に見下ろせる山中に創建された神社です。
神職が常駐した事は恐らく一度も無いものの、金華に人々が多く住んでいた頃は定期的に祭事が行なわれ、集落の小さな神社としてはそれなりの賑わいも見せていたようです。
ちなみに、今から25年前の平成11年に発行された書籍「金華区史」には、「現在も菊地武男が中心になって祭祀が続けられている」と記載されているため、歴史的には、菊地さんという御一族が中心となって神社を護持されていたようです。

しかし、その菊地さん御一族も含め、現在の金華地区からはほとんどの住民が消えているため、今となっては神社を管理する人も神社をお参りする人も全くおらず、残念ながら神社は完全に放置されており、金華神社が現在どのような状態になっているのか(社殿等の建築物は崩れたり朽ちたりする事無く今でもまだ現存しているのか、そもそも神社は具体的にどこにあったのか)、地元の方々でさえもはや把握していないという状況になっておりました。

金華神社の神社名についても、資料によって「金華神社」「山の神神社」「山神神社」「大山」など複数確認出来るため、正式な社名は不明で、肝心の御祭神については、恐らく山の神(大山祇神)様であろうと推察されますが、それ以外の事については、今となっては定かではありません。

 

そういった経緯や現状等を踏まえ、留辺蘂神社の役員の一部や関係者達の間で「現在、金華神社はどのような状況になっているのだろうか。もし、まだ社殿等の施設が今も現存しており、神様が他所の神社に合祀もされていないのであれば、ほぼ間違いなく誰からもお参りされずお祭りも一切されていないであろう現況は、金華神社の神様に対して大変申し訳ない。そういう状況であるのなら、金華神社の神様を留辺蘂神社にお迎えしてはどうか」という話、つまり留辺蘂神社に合祀してはどうだろうか、という意見が出るようになっていたのです。

そして、今からほぼ1年前の昨年4月末頃、金華神社の現状を把握・調査するため、私は禰宜と一緒に初めて現地に行ってまいりました。
予めネットで検索したり地元の留辺蘂図書館に行って郷土関係の資料を何冊も読むなどして、先ず金華神社の鎮座する大凡の場所を事前に調べ上げ、その上で、金華地区を縦断する国道242号から林道に入り、そして林道の途中(常紋トンネル工事殉難者追悼碑の付近)から道無き山中へと分け入って進み、突然現れるかもしれない熊に警戒しながらも、何とか無事に金華神社を見つける事が出来ました。
実際には、そのような回り道をせずとも、国道から神社に向かって山肌にほぼ一直線に伸びている参道(石段)があったため、そこを通ればもっと簡単に金華神社に辿り着けたのですが、この時は、その参道全体が伸び放題となっていた木々などで完全に覆われていたため、参道の存在には気が付きませんでした。

 

以下の写真はいずれも、この現地調査の際に撮影した、最近(約1年前)の金華神社の様子です。
朽ちつつはありましたが、鳥居、拝殿、本殿もはっきりと現存しておりました。この規模の小さな神社で、拝殿と本殿が何十メートルも離れて別々に建っているのは、道内の小祠としては珍しいかもしれません。

ちなみに、この時期は4月だったため積雪が融けて間もなく、高く伸びている草などもまだ少なかったため、他の時期よりは比較的現地に到達しやすかったと思います。

 

以下の写真3枚は、いずれも金華神社の拝殿です。拝殿内は、空間としては狭いながらも、祭典の参列者などが複数同時に昇殿・参列出来る構造になっておりました。

 

以下の写真は、その拝殿の奥に鎮座している、金華神社の本殿です。
所謂 “廃村マニア” や “廃墟マニア” とされる方々が各地を散策・探検してネットにアップしているそれらの記録にも、この金華神社を訪問した記録は写真と共に何例か散見されるのですが、それらの記録に掲載されている写真はいずれも鳥居や拝殿のみで、この本殿が写っている写真は、少なくとも私が見た限りでは全く確認出来なかったため、過去に金華神社を訪れた人達は、もしかするとこの本殿の存在にはどなたも気付かなかったのかもしれません。

 

この時、金華神社に到着した私は、先ず拝殿に昇殿して合掌し、拝殿内で本殿に向かってお参りをしてから、拝殿を退下して本殿前へと進み、本殿の御前にて「合祀に向けての金華神社現地調査開始奉告 及び 現地清祓」の神事を執り行ないました。

本来であれば、神職である以上は当然、狩衣などの装束を著けて神事に望むべきなのですが、この時は場所が場所だけに、装束どころか白衣・袴だけの着装すら難しく、しかし、そうはいってもさすがに私服や作業服などの姿で祝詞を奏上するのはやはり神職としては気が引けたため、とりあえず白い上下の雑衣を着て、頭には烏帽子の代わりに白ハチマキ(ちなみに禊の時に付ける白ハチマキは冠とも称されます)を額に付けた格好で、斎主として神事を執り行ないました。

具体的には、現地の清祓を行なった後、金華神社の神様に対して祝詞を奏上し、現在関係者の間で留辺蘂神社への合祀に向けての検討が進められている事や、今回はその確認やそれに伴う諸々の調査のためここに来させて頂いた事、神殿内の現状はどうしても知っておく必要があるため誠に畏れ多い事ながらこれより神殿の御扉を開扉して殿内の様子も確認させて頂く事などを、謹んで金華神社の大神様に奉告させて頂きました。
金華神社で神職により実際に神事が執り行なわれたのは、恐らく、30年以上ぶりだったと思います。

 

この時は30~40分程で、現地での神事斎行と第1回目となる現地調査を無事に終えました。
その第1回の調査から既に1年以上も間が空いてしまいましたが、来月以降、第2回の現地調査を進め、本年9月の合祀に向けて、更に着々とその準備を進めてまいります。